ミシンと蝙蝠傘

東京の文化や観光を、世界との視点で紹介するブログ。日本の魅力を国際的な比較から探ります。

松戸、まだ何者でもない自分が少し許される街

江戸川の向こうに松戸


東京へ向かう電車は早い。
朝の常磐線に揺られながら、男はいつも同じことを考える。
どこまで行けば、何者かになれるのだろう、と。

仕事はある。
目標と呼べそうなものも、一応はある。
それでも、自分の名前がまだ仮置きのままでいる感覚だけが、どうしても消えない。

松戸は、その感覚を否定しない。
追い立てるでもなく、慰めるでもなく、
ただ「今はそれでいい」と、街の距離感がそう言っている。

江戸川の土手に立つと、空が広い。
広すぎるわけではないが、考えごとを置くには十分な余白がある。
夕方、風に混じって聞こえるのは、遠くの車の音と、誰かの日常。
特別な景色ではない。
それでも、ここでは自分の輪郭が少しだけはっきりする。

松戸に暮らすということは、
夢を叶える街に住む、ということではない。
夢を腐らせずに置いておく場所を持つ、ということに近い。

家賃は現実的で、生活は過度に派手ではない。
外食も、自炊も、どちらかに寄り切らない。
働きすぎず、怠けすぎず、
毎日がぎりぎり壊れないバランスで続いていく。

その安定は、野心的ではない。
けれど、静かに効いてくる。

夜、都心から戻る電車の中で、
「まだ何者でもない自分」が少し許されている気がする。

同じ電車に、彼女も乗っている。

彼女にとって松戸は、
選ばなかった未来を、無理に思い出さなくていい街だ。
何かを諦めたわけではない。
ただ、今は決めなくていいと知っているだけ。

駅前の明かりは強すぎず、
夜道も、少しだけやさしい。
ヒールを脱いで歩ける距離に、
今日の終わりが用意されている。

近くには、柏があり、我孫子があり、流山がある。
刺激も、思索も、更新も、
手を伸ばせば届く距離にある。
けれど、毎日そこにいなくてもいい。
選択肢があるという事実そのものが、人を落ち着かせる。

松戸は、完成された街ではない。
だからこそ、住む人も完成を求められない。
何者かになる途中でいることを、
この街は不思議なほど自然に受け入れる。

いずれ、ここを離れる人もいるだろう。
東京の中心へ行く人もいれば、
別の都市、別の国へ向かう人もいる。

松戸は、その未来を引き止めない。
ただ、少しだけ準備をする時間をくれる。
お金を貯め、言葉を蓄え、
自分が何を大切にしたいのかを、静かに考える時間を。

ここで過ごした日々は、
劇的な思い出にはならないかもしれない。
けれど、後になって気づく。
あの時、自分はちゃんと呼吸をしていたのだと。

松戸は、
人生の途中に置かれた余白のような街だ。

何かを始める前に。
あるいは、始め直す前に。
ほんのしばらく、自分を預ける場所として。

そして羽ばたく時には、
何も言わずに、ちゃんと見送ってくれる。

松戸とは、
まだ何者でもない自分が、少し許される街なのだ。